世間的にヒットした作品、盛り上がった作品、 売れた作品に対して、一定層の人が 否定的な感想を出すことはよくある。
今なら「超かぐや姫」がまさにそんな感じだ。 Netflixで爆発的にヒットしたときは、 そこまで否定的な感想は目立っていなかったが 劇場公開が始まり、とんでもない着席率と、 小規模公開ながら初週3億近い興行収入を 叩き出したことで、否定的な感想が かなり目につくようになった。
否定的な感想 そのものは否定しない
私は、100人が見て100人全員が面白いと 思う作品は存在しないと思っている。
どれだけ面白くどれだけ素晴らしい作品でも、 いろいろな理由で「合わない」 「面白くない」と感じることはある。
だから私は、人の感想自体は否定しない。 自分のレビューを否定されても、 基本的にそれに対して 何も言わないようにしているし、 他者の感想に対しても否定しない主義だ。
ヒットに伴う感情の変化
ただ、そんな否定的な感想の中でも、 私が気になるのは 「世間的なヒットに伴う評価の変化」である。
超かぐや姫を見た人の中には、 世間的な盛り上がりに対して 「過大評価だ」「嫌いになりそう」 とまで言う人がいる。 その人は、もともと超かぐや姫に対して 否定的な感想を持っていて、 好きではない作品だったらしい。 そこから、世間的な盛り上がりや、 SNSで何度も見かける状況のせいなのか、 「嫌い」になりそうだと言う。
この感覚が、私にはよくわからない。
自分の評価と世間の評価が違うからといって、 作品に対する印象そのものが変わることは、 私にはほぼない。 熱心なファンに粘着された、攻撃された。 そんな経験があるなら、作品自体の印象が 悪くなり嫌いになるのはなんとなくわかる。 だが、そういったこともないのに、 自分が面白くなかった作品、 楽しめなかった作品が盛り上がっている事に 対してマイナスの感情を抱き、 作品そのものに嫌いという 明確な感情にまでなる。 この感情の変化が、 私にはいまいち理解できない。
同調圧力
とはいえ、「理解できない」と 突き放すのは簡単だ、なので、 自分なりに理解しようとしてみる。
これは、ある種の「同調圧力」に 近いのかもしれない、 たとえば鬼滅の刃が流行ったときには 「キメハラ」なんて言葉が生まれた。 スポーツで言えば大谷選手、 最近で言えばリクリュウのように、 話題をよく見かけることで、 逆にそれがハラスメント的に感じられる という現象もある。
これに関しても、私自身には あまりない感覚ではある。 ただ、そういう人にとっては、そこに 「同調圧力的な感覚」を覚えるのだろう。
鬼滅の刃は面白いのだから 見に行かないのはおかしい。 大谷選手はあれだけ活躍しているのだから、 それを評価したり 話題にしないのはおかしい。
そんな空気を感じるのかもしれない。
みんなが褒めているものを、 自分も褒めなければいけない。 それを強制されているような感覚になり、 拒否感が生まれる。 自分の興味がないもの、 好きではないものを押しつけられるような、 息苦しさがあるのかもしれない。
「過大評価」という 言葉が生まれる背景
人間は他者と関わる社会の中で生きている。 特にSNSでは、それをより顕著に感じやすい。 同時に、「自分の価値観を否定された」と 感じるのが嫌なのだろう。 だから「過大評価」という言葉を使う。
自分は楽しめなかった。 自分にとっては30点くらいの作品なのに、 世間では120点みたいな熱量の文章が出回る。 さらに、興行収入のような結果の数字が、 それを補強してくる。
すると、 「過大評価だ」という感覚になってしまう。 自分は30点だと思っているのに、 自分の価値観を否定されたように感じる。 その嫌悪感が、 「過大評価」という言葉を 使わせるのかもしれない。
「過大評価」という 言葉は好きになれない
ただ、「過大評価」という言葉は、 その過大評価をした他者の感想を 否定する言葉でもある。 「過大評価している人の 感想はあり得ない」 「過大評価している人の 価値観は間違っている」 そういうニュアンスを含んでしまう。 だから私は、「過大評価」という言葉が あまり好きではない。 同時に「逆張り」という言葉も 好きではない。過大評価も逆張りも 他者の評価を否定する言葉でしかない。 確かに作品を評価するうえで 過大な文章を使う人はいる、 神作や語り継がれるべき名作! というような表現を使う人も多い 逆に駄作やゴミやクズなどと 表現する人はいる、ただ、 その人がそう感じたのだから それは仕方ない。 私は基本的にこれらの言葉を使わないが、 使うのもその人の感想という名の 表現の自由だ。 ただ過大評価や逆張りという言葉は 他者の感想という名の 聖域に踏み込んでしまっているように 感じてしまう
「ステマ」という言葉も嫌い
同時に、「ステマ」という言葉も私は嫌いだ。
10年ほど前の匿名掲示板では この言葉が飛び交っていたし、 実際にステルスマーケティングに当たる事案が いくつかあり、「ステマ」という言葉が 広まった経緯もある。 ただ、その結果として、根拠なく反射的に 「ステマ」という言葉を使う人も 一定数いるように思う。 もし超かぐや姫が本当にステルに 当たる行為をしていたのなら話は別だ。 だが、この記事を書いている段階では、 そういった事案は確認されていない。 にもかかわらず、 「ステマで流行っている」という言葉で 自分の価値観を正当化しようとする。 そういう使われ方は、やはり違うと思う。
過大評価という言葉も、 ステマという言葉も、 自分の価値観を正当化したい気持ちから 出てくる面はあるのだろう。 その気持ち自体はわからなくはないが、 「過大評価」という言葉は 他者の感想を否定し、 「ステマ」という言葉は場合によっては 犯罪行為のレッテル貼りにまでなってしまう
作品評価と、 他者の感想の否定は別
作品をつまらないと思うこと自体は自由だ。 ただ、その評価の延長で 他者の感想まで否定し始めると話は別になる。
他者の感想を気にしすぎて、 世間的な盛り上がりが生まれてくると、 否定したい気持ちが強くなり、結果として 「過大評価だから嫌いになった」 「ステマっぽいから嫌いになった」 という感情の変化が生まれるのだとしたら、 そこには作品そのものとは 別の問題が混ざっている。 これもSNS社会の1つの 弊害なのかもしれない。 オタクは冷笑主義に陥りがちだ と私は思う。 特に古い世代のオタクは、 「社会からの孤立」を 経験してきたがゆえに、 大衆的に評価されているものに対して 一歩引く傾向があるように感じる。 それ自体は、私は悪い事だとは思わない。 誰も良い評価していない作品の 良いところを見つけ出すのは オタクらしい部分であり、逆もしかりだ 何度も言うが、作品に対して どんな感想を持とうが自由だ。
ただ、他者の感想を否定したり、 大衆的な評価に引っ張られる形で 自分の作品評価まで 変化してしまったりするのは、 少し違うのではないかと感じる
空気感への反発
「作品そのもの」への評価と、 「作品を取り巻く空気」への 反発は本来は別物のはずだ。 しかし、このSNS社会ゆえの弊害なのか、 それを一緒くたにしてしまい、 結果として過大評価やステマといった 作品自体を見た自分自身の感想に対して 外因的な要因を付け加えてしまっている。
世間的に評判だから、 世間的に悪い噂が立ってるから 作品を見るということはある。 ただ、その見た後の自分の感想は その評判と違ってもいいはずだ。 「誰かの作品の良い感想を見たけど、 自分が見てみたら面白くなかった。」 「逆に評判の悪い作品を見てみたら、 自分は意外と楽しめた。」
これ自体は素晴らしいことだ。 外因的な要因に縛られない 自らの感想であり、これを 「逆張り」と否定してはいけない。 もちろん、良い感想や悪い感想を見て 自分も同じように感じたというのも 何の問題もない。
だが
「誰かの作品の良い感想を見たけど、 自分が見てみたら面白くなかったし、 その良い感想を書いた人達は過大評価だし、 世間的なこの盛り上がりはステマだ。」
こういう外因的な要因に あまりにも左右されすぎている意見は 「個人の感想」の範疇ではない。 上の文章の3分の1ほど 「自分が見てみたら面白くなかったし」の 部分しか個人の感想は含まれていない。
だから私はこういう世間の盛り上がりや 他人の感想で作品への評価が揺らぐ人は あまり好きではないんだろうなと 自分の中で結論付けることができた。 長い駄文にお付き合いいただきありがとうございました。
