ここ最近、他人のエッセイを読むことにハマっている。
私はこの「エッセイ」というものを、これまであまり読んでこなかった。
エッセイといえば、どこかキラキラした生活をしている人たちが、キラキラした日常を語るもの。そんな認識が私の中にはあった。
もちろん、エッセイをまったく読んだことがないわけではない。
ただ、他人の個人的な話を読んだところで、それを面白いとはあまり感じられなかった。
やれ、こうしたら成功しただの。
やれ、こういう失敗をしただの。
それのどこが面白いのだろうと、常々思っていた。
だが、ここ最近、その認識が少し変わってきた。
若林
きっかけは、オードリーの若林さんだ。
前々から私はオードリーさんのことが好きで、定期的にラジオも聴いている。
いわゆるリトルトゥースだ。
若林さんが本を書かれていたことは知っていた。
しかし、私は去年まで読んですらいなかった。エッセイには興味がない。好きな芸人の本ですら、食指が動かなかった。
だが、私は今、若林さんのエッセイをすべて読み尽くしている。
きっかけは「ドラマ」だ。
オードリー、そして南海キャンディーズの人生を描いたドラマ『だが、情熱はある』が、あまりにも面白すぎた。私と妻は徹夜で一気見してしまったほどだった。
そのドラマの中で、若林さんが何かを書いているシーンがたびたび映る。
それこそが、エッセイだった。
そこから若林さんのエッセイに興味が湧き、私はまんまとエッセイの世界に足を踏み入れてしまった。
エッセイとは恥である
若林さんのエッセイを読んで、まず感じたのは、
「恥部」をさらけ出しているということだった。
はっきり言って、若林さんはかなりこじらせている。
そして、尖っている。
とくに初期のエッセイはその傾向が強く、人によっては「なんだこいつ」と思ってしまうはずだ。ひと言で言えば、斜に構えている。
だが、そのエピソードの数々に、私は共感を覚えてしまった。
私は別に芸人ではない。
しかし、私もまた捻くれている。
若い頃は、心の中でずっと他人からの目線を気にしていた。
自分がどう見られているのか。
どう思われているのか。
そんなことを、必要以上に考えていた。
「スタバでLは言えるけど、グランデは言えない。
パスタとは言えず、スパゲッティと言う」
この若林さんの若い頃の感覚が、わかる人はどのくらいいるだろうか。
私は今でも「スタバ」が苦手だ。
通常メニューならまだいい。だが、カスタマイズとなると、もう無理だ。私のような人間がやるべきではないとすら思ってしまう。
例えば、キャラメルマキアートのLは言える。
だが、この先が問題だ。
「ホワイトモカシロップ追加で、シロップ両方多め。
無脂肪ミルクに変更で」
そんな呪文を唱えることは、不可能に近い。
店員さんからすれば、客の一人が何を頼もうがどうでもいいのだろう。
そんなことは頭ではわかっている。
それでも、なぜか無性にそこに恥を感じてしまう。
若林さんのエッセイが面白いのは、こうした恥を、恥のまま終わらせないところだ。
ただ自意識の痛々しさを書くだけなら、読んでいて苦しくなる。
下手をすれば、面倒くさい人の愚痴になってしまう。
だが、若林さんの文章には、自分の恥を少し離れた場所から見つめ直す客観性がある。
そして、芸人としての笑いがある。
こじらせた自意識をそのまま差し出しながらも、それを笑いに変えている。
だから読んでいて苦しくなるだけではなく、どこか救われる。
恥を晒しているのに、読後感が重くなりすぎない。
むしろ、自分の中にもあったはずの情けない感情を、少しだけ許せるようになる。
そこに、若林さんのエッセイの大きな魅力がある。 <h3>他人の不幸は蜜の味</h3>
結局、みんな他人の恥という不幸話が好きなのだと思う。
例えば、居酒屋で知らないおじさんが酔っ払って、
「俺、年収一億あるんだよ。何してるか聞きたい?」
と言ってきたら、正直ウザいだけだ。
だが、
「俺、借金一億あるんだよ。なんでか知りたい?」
と言われたら、少し興味を持ってしまう。
恥を晒すということは、勇気のいる行為だ。
しかも、それを自分から文章という形で書き綴るなど、本来ならもってのほかだ。
それでも、他人のエッセイを読むことで、他人の恥を知ることで、自分自身を見つめ直すことができる。
若林さんのエッセイを読んで、私もまた、若い頃はずっと「斜めの夕暮れ」を送り続ける日々だったのだと、少し感傷に浸ることができた。
若林さんのエッセイは、他人の人生を覗き見る文章ではない。
他人の恥を通して、自分の中に眠っていた恥を掘り起こされる文章だ。
だから読後感は、単なる共感ではない。
もっと嫌で、もっと近い。
私の中にもあったはずの、自意識の残骸が勝手に鳴り出す。
それを私は、共鳴と呼びたい。
若林さんが晒した恥は、若林さんだけのものではなかった。
そこには、私自身の恥もあった。
だからこそ、私はエッセイを読むようになったのだと思う。
他人の人生を覗き見したいからではない。
他人の恥の中に、自分の恥を見つけてしまうからだ。
